管理人のプロフィール!!

このブログの管理人の詳しいプロフィールです。

長いので、お時間の許される方は少しおつきあいください。。。

外池康剛(とのいけ やすたか)
1982年11月26日、栃木県生まれ、東京都在住。

翻訳者、テューバ奏者、アレクサンダー・テクニーク(BODYCHANCEメソッド)訓練生

経歴
☆生い立ち〜ピアノ・音楽との出会いと挫折(幼年編)

中学の音楽教員であった母、縫製業を営んでいた父という家庭に生まれる。
二人兄弟の長男。
母親の影響というか恐らくは親の意向で、代表的なお稽古ごとであるピアノ教室に通うようになる。幼い頃の記憶を辿ると多分ピアノは自分でも興味があったとは思うのだが、家のピアノの部屋(練習室)に子供の恐怖を激しく煽る独特の容姿の人形が置いてあり、幼い心に恐怖とトラウマを植え付けられて人形に見られるのが怖いという我ながら信じられないほど繊細な理由で練習に身が入らず、バイエルで躓いて一向に上達せずに数年を費やす。

ある意味、すでにこれが音楽人生最初の挫折であった。。

☆テューバ・吹奏楽部との出会い〜中学から高校まで(少年編)

中学に入学して部活動なるものに参加することとなり、当時はズバリ "The 肥満児!"であったので運動部は当然にないなと早々に除外し(というか、これもお人形さんが怖いと同じパターンなのに今更気がついたのだが、当時見た「僕らの七日間戦争」という映画でデブの男の子が体育の教師から猛烈なしごきというかいじめを受ける光景を目撃し、中学ってこんなに怖いのかよ!という恐怖にとらわれていたのでこれも大きな理由であった)「自分は楽譜が読めるから」(ただし、これは英語が読めるではなくてアルファベットの読み方が分かると同じレベルの「読める」なのであった)という理由で吹奏楽部へ。

当初はフルートかトランペットをやろうと思っていた(ていうかそれしか知らなかった)のだが、入部見学に行った早々に先生がすでに私はテューバと決めていて、ただ一人だけの男子部員であったこともあり、体が大きいし男の子でかなりの肺活量もあるからぜひテューバをやって欲しいとあれこれ上手くおだてられて自動的にテューバ・パートに決定。

ちなみに「デブだからテューバ」というのは私の知る限り「じゃんけんで負けたから」と双璧をなすテューバ人生の王道である。というわけで、ピアノではいきなり道を踏み外していたわけだが、振り返るとある意味でテューバ生活のスタートは大器を嘱望されるエリート街道だったのかもしれない。。

中学では男子部員一人というかなり独特かつ激しい環境を経験した一方で高校は今度は男子校だったので全員がごつい男子部員という、振り返るとこれもまたかなり振れ幅の激しい生活を送る。で、中高の6年間はとにかく練習していた。はじめは戸惑ったテューバも音が出るようになるともう面白くて面白くて。

当時も今もこの頃の熱意には疑いの余地はなく、とにかくテューバが大好きだったのでした。

☆大学入学〜オーケストラに出会い衝撃を受ける(青年編)

部活ばっかりやっていたのだけれど、なぜか勉強はまったくサボらなかったおかげなのか東京学芸大学中等教員養成課程英語科に現役で無事に入学。

大学に入ったらオケに入ろう!というのは実はなんとなくだが最初から決めていた。
高校の吹奏楽部の顧問の先生が今思うとなかなかユニークな方で、吹奏楽を指導しつつ、
「せっかく金管楽器をやるんだから、オーケストラに触れないともったいないよ」
とことあるごとに語る人だったのでそれを全く疑わずに素直に受け入れて、「せっかくだからオケをやろうー」という軽い気持ちで入団を決意し、幸運にも2年に1回のテューバを募集の年度に当たったのでテューバパートへ。

しかし軽い気持ちで門を叩いたオケの世界の衝撃は凄まじく、初めての演奏会に向けて触れたオケのテューバの譜面とサウンドには文字通り度肝を抜かれたのであった。
「え!これしか楽譜ないの?!」
は最初は拍子抜けだったのだが
「え!テューバなのにこんなにソロあるの?テューバなのにすげえメロディかっこいいじゃん!」
と吹奏楽との圧倒的なギャップに感動し、さらに初めて本格的に聴いたオケのテューバのサウンドも
「えー!!こんなにでかい音で吹くの!こんなに高い音があるの!こんなに明るい音色なの!こんなに(以下省略)」
なわけで、最早初めて火を見てサルから進化した人間のようなものであった。さらにこの頃現在までお世話になっているテューバの師匠と出会い、初めて本格的なテューバのレッスンを受け、また「マジオ金管奏法」に触れ、金管楽器に「奏法」があるということを知り、それが実現してくれるいわゆる「いい音」のクオリティの違いにさらなる衝撃を受ける。

今までの練習は一体なんだったんだ。。。

そんなこんなで振り返ってみても人生最大の衝撃を受け、最大の転機となったのはやっぱり大学生活の時期であった。

ちなみに世の大学生の多分に漏れずだと思うのだけど、とにかくサークルの部室に入り浸り一日中まさに朝から晩まで楽器の練習ばっかりしていたので大学の授業はあまり、というかほとんど出席せずに4年間を過ごす。事実上の幽霊学生だった私は先生方からも同級生からもあのまま8年間いるのではないかと予想されていたらしいのだが、さすがにそんなことをしたら両親が泣くだろうと思っていたのでもちろん一発奮起して(最初からやれって話だけど)大学4年時に猛烈に授業に出まくり、一年生に混ざって必修単位を制覇してあらゆる意味でギリギリで奇跡的に学部を卒業し、こともあろうに大学院に入学して3年間を過ごし、アメリカの現代文学を専攻し学術修士の学位を取得して卒業。

(ちなみに大学院3年間は自戒の意味を込めて?演奏活動を殆どせずにひたすらに勉学の日々を過ごす。ここにはあえて記さないけれど、先生方にとにかく恵まれたおかげで驚くほど実りのある充実した時間を過ごさせていただいた。)

☆大学院卒業後就職〜アレクサンダー・テクニークに出会う(現在)

大学院では勉強ばかりしていたし、はっきり言うと世の中舐めきっていたのでいわゆる真面目な就職活動は本当にほぼ何もやっていなかったのだが、大学院2年の終わり頃に色々な人のご縁に恵まれて「目が覚めて」このまま就職できなかったらどうやって生きていくのだろうという現実的な問題にやっと(!)直面し大慌てで履歴書などを書いてみたりして、今振り返っても奇跡だと思うのだが、翻訳者として採用していただき現職に就く(当時はTOEICのスコアが810くらいだった)。

就職後しばらくは引き続き音楽なしの暮らしを続けるが、いわゆるボーナスというものを手にするとにわかに欲が出て楽器を買っちゃおうかという気になり、師匠に相談して分割払いの頭金をえいっ!と払ってB♭管を購入。で、およそ5年ぶりくらいにテューバを吹き始めたのだが、いろいろ忘れていると思ったのもつかの間、数ヶ月も練習するとあっという間に大学時代と同じくらい、というかそれ以上に良いんじゃないか?というコンディションになってしまい拍子抜けする。師匠にもご意見を伺ってみると、「体の力みや余計な癖がずっと抜けている」という評価をいただき、ひょっとして練習しなくても、或いは練習しない方が上達することがあるのかもしれないとまたも新たな衝撃を受ける。練習しなくても、身体の使い方が変わると結局演奏は変わってしまうということもこの時すでに薄々気づいていたのかもしれない。。

その後は仕事をしつつ、いわゆるアマチュア音楽家として毎日それなりに楽しく過ごしていたのだが、2012年〜2013年頃に仕事のストレスから心身の健康に不調をきたし(恐らく大人なら誰しも我慢して通るようなところがやっぱり当時の私には全く我慢できなかったのであれこれ溜め込んでいたのが最大の要因であろう)挙句に楽器の演奏にも著しい困難を生じるようになってしまい、半ばすがるような気持ちでそういえば聞きかじったことのある
「アレクサンダー・テクニーク」
のレッスンを体験し、目から鱗で今回も衝撃を受け、さらに今回は
「俺がやるべきなのはこれだ!!」
という天啓のようなひらめきを得て体験レッスンから継続レッスンに入り、興味と熱意に従っているうちにいつのまにやら教師訓練コースに入学して現在に至る。


元々は音楽の勉強から学び始めたことであるし、今でも私の表現やコミュニケーション、大げさな言い方をすれば私と世界の向き合い方の根っこにあるのはやはり音楽だろうと思っているのだが、一方でアレクサンダーのレッスンで経験した「身体と心」の変化の影響力の凄まじさには計り知れない関心を抱くに至り、心身の探求に今のところは興味と学びの軸足を置いている。根本的なところで「人が変わる」と「演奏も変わってしまう」ということを目撃し、このワークが音楽家にとってこの上ない助けになることを確信し、教師になることを目指して壁にぶつかりながら学びの日々を過ごしている。

ちなみに音楽はライフワークだと思っているけれど、趣味は読書と映画鑑賞で、こちらは語り出すと本当に止まらないのでまたいつか別の機会があれば書いてみたいと思っている。

こんな管理人ですが、どうぞ宜しくお願いいたします。



アレクサンダー・テクニーク(BODYCHANCEメソッド)訓練生 外池康剛
※写真は2012年のパリ、ノートルダム寺院の前です。生まれて初めての一人旅で、パリ凱旋門の地下道でイタリア人のチンピラに絡まれて40ユーロをぶんどられるという強烈な体験をした苦くも切ない思い出のある写真です。




コメント

人気記事